神さまからのプレゼント
さくら組のある子どもが、担任の先生に連れられて私のところへやってきました。「どうしたの?」と声をかけると、どうやら私に聞きたいことがあるようでした。よく見るとその子の手には礼拝で使う聖書がありました。「先生、これ(聖書)は誰が書いたの?何のためのものなの?」きっと勇気を出してやってきてくれたのでしょう。恥ずかしそうに体を半分担任の先生の後ろに隠しながらのやりとりです。けれども、その目は真剣でした。
私は正直、戸惑いました。なぜなら、聖書は誰が書いたか、書かれた目的は何か。諸説あるもののはっきりとしたことはまだまだ仮説の域を出ないからです。「いやー、それがさぁ。いろいろ調べているんだけど、本当のところはわからないんだよね。」
そう言いかけたときに、その子どもの真剣な目がじっと私を見つめてくれているのに気がつきました。そして、自分が発しようとしていた言葉は「正論によるごまかしだ」と感じました。確かに「わからないものはわからない」ということも時には大切です。でも、この問いかけは「自分自身が問われている」ような気がしたのです。そう思ったので、急いで言葉を引っ込めました。そして、「聖書はね、神さまからのプレゼントだと思うよ。〇〇くんのこと、そしてみんなのことを神さまがどれだけ大事に思っていてくれているかを教えてくれるためのね」と伝えました。たどたどしい言い方だったと思います。けれども、その子は「にっ」と笑ってお部屋へと戻って行きました。
子どもたちの真剣な問いかけは、時に不意打ちのようで、そしてとても鋭いものです。時にその問いかけの鋭さゆえに、ごまかしたり、適当に流したりしてしまうこともあります。でも、その真剣な問いかけと眼差しを受け止めてもらった。悩みながらも、応答してもらった。そんな経験が子どもたち一人ひとりの心を豊かに育んでいくのではないかと思います。そして、同時に問いかけられた私たちにもたくさんの気づきや変化を与えてくれるのではないでしょうか。
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