「おめでとう」とは言えない中で
「おめでとう!」とはなかなか言えないような新しい年の始まりとなりました。能登半島での地震から1か月以上が経過していますが、いのちや暮らしが失われた人々の悲しみと先行きの見えない不安を日々知らされています。お一人おひとりが少しでも安心を得られますように、適切な支援と配慮がなされますようにと願わずにはいられません。
私は2011年の11月に福島県の南相馬市を訪れた経験があります。東日本大震災が発生して8か月が経過したころでした。小さな町の小さな教会に足を運び、その教会の牧師さんや地域の方と交流をさせていただいたのです。お話を伺う中で、避難所に行きたくてもしょうがいのために大人数の中で生活することに不安を抱えていて自宅に戻らざるを得なかった方がいることなど当時の私が想像もしていなかった現実を知らされました。
そして、今でも心に残っているのは「わたしたちは急ぎたくても急げないんです」という言葉でした。当時、私には「早く元の生活を」とか「一刻も早く復興を」という思いがありました。もちろん「1日も早く」というのは心からの願いでもあると思います。しかし、それができないという苦しみや悲しみを私は知ろうともせず、気持ちを置き去りにしてしまい、その結果一人ひとりをたくさん傷つけてしまっていたことに気がつかされたのでした。
私たちは相手の気持ちを「分かったつもり」にはなれるものの、本当のところで「分かる」ことができないものです。その私たちが大切にしたいことは、想像すること、共感すること、心を開き相手の思いを受け止めようとする営みです。そうすることで、全てがわかるというものでは残念ながらないのですが、お互いの距離感が少しずつ縮まっていく瞬間があり、そのことで本当の意味で「共に生きる」ことができるのではないかと思います。
ちゅうりっぷ組で1日の楽しかったことを互いに語り合う時間を持っていました。そこでは誰かの言葉に「いいね~」という応答がなされていました。またあるこどもは「〇〇くんと積み木をして遊んだことが楽しかった」と話し、それに応える形で「ぼくも積み木で遊べて楽しかった」と言葉を交わし合っていました。また、別のこどもは伝えたい言葉があるけれど、「みんなが見ていると恥ずかしくて言えない」と言っていて、それを聞いたまわりのこどもたちはそのこどもを直接見ないようにして耳だけをそのこどもに向けていました。そのことで安心して自分の思いを伝えている姿がありました。誰かの言葉を聞いて、「いいね・素敵だね」と共感する。自分だけではなくて誰かと関わったことに価値を見出し喜び合う。「恥ずかしいから」という気持ちを汲み取って、安心して話すことのできるように配慮する。
ちゅうりっぷ組が始まった4月当初ではなかなか見られなかったこどもたちの姿であり、今他者へと心を伸ばし、そのことを楽しんでいる、喜んでいる豊かな心の成長をここに見ることができます。そして、この「共感」や「心を伸ばす」営みが、自分とは別の他者への気持ちの想像という「生きる」上で大切な力の土台となっていくと思うのです。そのように育まれた一人ひとりの心が傷つき悲しむ誰かの心を受け止めることができる。そのような日が来ることを信じてリタ幼稚園での保育を行っていきたいと願っています。
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