ひとつ
ラグビーのW杯は南アフリカ代表が優勝し幕を閉じました。日本代表は目標にしていたベスト8に進み前回大会からさらに躍進を遂げました。ラグビーには印象的な言葉が多くあり、この間それらを耳にすることもよくありました。例えば「no side」。試合が終われば敵も味方の区別がなくなり、互いに健闘を褒めたたえるという精神を表します。また、「one for all,all for one」(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)という言葉も非常に有名ですし、さらには「one team」という言葉が代表チームのスローガンのように用いられもしました。
さて、これらの言葉はとても耳障りの良い言葉に思います。「ひとつになる!」ということが美しいことのように聞こえます。ラグビーW杯が終わって、東京オリンピックのマラソンと競歩の開催地が東京から札幌に変更になったことが話題になっています。その中で、「決まってしまったのだからノーサイド。ワンチームの精神で頑張りましょう」という趣旨のことが言われ、「ひとつになる」ことが何より大事という雰囲気が醸成されている気がします。でも、わたしはなんだかこの雰囲気が少し怖いなぁと感じています。
本来の「no side」や「one team」にはそれぞれの「違い」が尊重されている背景があるはずです。チームの違い、ポジションの違い、国籍の違い、得手不得手の違い。たくさんの違いが集まって、多様な背景があるからこそチームとして力が発揮され、試合後には喜びも悔しさも共にしながら互いを認め合う。そういう意味での「ひとつ」なはずです。けれども、今わたしたちの暮らしの中で使われる「ひとつになる」という言葉は多様な価値観を排除して作り上げようとしている「ひとつ」のような気がしてならないのです。異なる意見はなかったことにして、押し通してしまう。異なる思いを発する人は徹底的に批判される。本来、いろんな思いがあって、一つひとつ折り合いをつけながら話し合われ、作り上げられていくべきことが、しかしながら力の強い方、数の多い方が優先されて「ひとつ」とされていく。「ひとりがみんなのために」ということばかりが強いられ、「みんながたったひとり」のために、またその「たったひとりの声」に耳をかさなくなってしまってはいないでしょうか。
リタ幼稚園では「一人ひとりの違いを大切にすること」を保育の柱に据えていますが、それは今の時代を生きる上で非常に重要な事柄だと改めて考えさせられています。
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