命こそ宝
6月23日は「沖縄慰霊の日」です。1945年6月23日に旧日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされており、毎年糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園では追悼式が営まれます。この平和記念公園には「平和の礎(いしじ)」という沖縄戦でいのちを失った一人ひとりの名前が刻まれた碑が建てられています。刻まれた名前には国籍、軍人、民間人の区別はありません。刻まれた名前は実に24万1,686名に上ります。私は中学生と高校生の時に沖縄を訪れました。平和記念公園にも足を運びましたが、平和の礎に刻まれた名前の多さに言葉を失った記憶があります。
6月1日から23日までの間「沖縄『平和の礎』名前を呼び上げる集い実行委員会」の方々が、原則朝9時から夜9時までの時間にZoomを用いていのち失われた一人ひとりの名前をリレー形式で読み上げるという催しをおこなっています。そこでは「出身・名前・年齢」が読み上げられていきます。名前を一人ひとり読み上げることで、そのいのちが確かに存在していたことを想い起こし、同時にその世界でたった一人の尊いいのちが一方的に奪われたり、また自らいのちを立たざるを得ない状況に追い込まれたりという戦争という悲惨な出来事に向き合い、「平和」がどれだけ大切なことなのかを学ぶ機会となっています。
幼稚園では一人ひとりの「名前」を大切にして保育をおこなっています。「名前を呼ぶ」ということは「声・言葉」で相手の心に触れるということです。名前を丁寧に、大切に呼ぶことはそのこどもと丁寧に関わることにつながります。反対に大袈裟に聞こえるかもしれませんが、名前を軽んじて関わるということ(呼び捨てにしてしまったり、呼ばれて嬉しくない呼び方で呼んだり)は「いのちを軽んじること」につながるのだと思うのです。
同時にこどもたちに対しても「名前を大切にしよう」ということをお話をすることがあります。「おい!」とか「おまえ!」ではなくて、「〇〇ちゃん・〇〇くん・〇〇先生」と名前を大切に呼ぶことが、お互いを喜び合ったり、信じ合えるはじめの一歩、大切な「出会い」でもあるからです。
私は平和の礎に刻まれた一人ひとりの名前が大切に、丁寧に読み上げられる様を聞き、いのちの大切さに触れたような気がしました。誰もが愛されていのちを受け、その名前を愛おしまれて呼ばれていたのです。しかし、戦争によってそれが断ち切られてしまった。争いになるとそこに「名前」がありません。「敵」とか「味方」とか、「軍人」とか「民間人」といった大雑把な枠組みで一人ひとりのいのちは分類され、塗りつぶされてしまう。だから、いのちが軽んじられてしまう。
「命(ぬち)どぅ宝」というウチナーグチのことわざがあります。「いのちこそ宝」という意味の言葉です。一人ひとりの名前を呼ぶ時に「大切な命・宝物である命」ことを、想い起こしたいと思います。
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