こどもたちの寝顔から
降園バスに添乗していた時のことです。ある子どもが年下のきょうだいのことを次のようにお話ししてくれました。
「お家ではよく喧嘩をするんだけれど、寝ている顔はとっても可愛いんだよね。けんかをしても寝ている顔を見ると『まあいいか』ってなるよ」と。私はそのお話を聞いて「『まあいいか』ってとどんな気持ちのこと?」と聞きました。すると「う~ん、優しい気持ちかな」と答えてくれました。
小さなこどもの寝顔を見ていると不思議と、あたたかい気持ちになります。こどもたちは特別に何かをしたのでしょうか。特別な成績をおさめたとか、そういうことではありません。眠っているだけです。語弊を恐れずに言えば、無力な存在です。それなのに、その寝顔は人の心の中に優しい気持ちを届けます。心を動かします。私はこのことから一見、無力に思える小さなこどもたちの中に、人の心をあたたかく照らす希望があると感じます。
クリスマスは神の子であるイエス・キリストの誕生を祝うときです。イエスは神の子であるにもかかわらず、ベツレヘムという小さな町の馬小屋の中で生まれました。ひっそりと世界の片隅のような場所で、そのいのちの歩みが始まりました。聖書はイエスのことを決して力強い、英雄のような形では描きません。
その誕生からして非常に弱々しい、無力な存在として描いています。けれども、そんな小さく弱いいのちに出会った人々は、希望と優しさに溢れていきました。両親であるヨセフとマリア。この家族を受け入れた宿屋。寂しい野原で生活をせざるをえなかった羊飼い。そして、差別を受けていた東の国からやってきた博士たち。これらの人々は、小さなイエスの寝顔に希望を見つけたのでした。そして、とても安心をすることができたのでした。誰からも見捨てられたように思える人生で、この小さな赤ちゃんに「受け入れてもらった」と感じたからです。だから、一人ひとりはとても喜んだのです。この安心とあたたかさをもってお祝いをするのがクリスマスです。
今、私たちが生きているこの世界は「数が多いこと」、「何かができること」ばかりが尊ばれています。けれども、小さなこどもの寝顔の中に、それらでは決して感じることのできないあたたかさ、優しさ、可能性があることに心を伸ばすことができればと思います。こどもたちは、希望です。その希望をクリスマスの出来事を通して確かめ、大切に育んでいきたいと願っています。
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